山ひとつ削って生まれた、
白の物語。
その白い器を叩くと、なぜガラスのように澄んだ音が鳴るのか。遠い異国の王までも夢中にさせた、有田焼四百年の秘密をたどる。
※ 泉山の石から生まれた白磁の器を単純化したイメージ図です
その音を、まだ知らない人へ
想像してみてほしい。真っ白なティーカップを両手で持ち上げ、爪の先でふちを軽く弾いてみる。返ってくるのは、いつものマグカップを叩いたときのような鈍い「コトッ」という音ではない。「キンッ」という、小さな鈴か、薄いガラスを弾いたときのような澄んだ高い音だ。カップを窓の光にかざすと、ふちの薄い部分がうっすらと透けて見える。土でできているはずの器が、まるでガラスのように光を通している。
これは特殊な釉薬でも、現代のハイテク素材でもない。江戸時代から四百年にわたって受け継がれてきた職人の手仕事から、ごく当たり前に生まれる性質だ。その正体は、佐賀県有田町でおよそ四百年前から焼かれ続けている磁器、有田焼(ありたやき)である。
「和食器でしょう?」「絵柄のきれいなお皿でしょう?」——そのくらいのイメージしか持っていない人は多い。しかし調べてみると、そこには朝鮮半島から連れてこられた一人の陶工が山ひとつぶんの石を掘り当てた話や、遠く離れたヨーロッパの王様が有田焼欲しさに国家予算級のコレクションを築いてしまった話、そして「土こね3年、ろくろ8年」と言われるほど長い年月をかけて技術を受け継ぐ職人たちの話が隠れている。
この記事は、そんな有田焼の正体を、専門用語なしで最後まで案内するための地図だ。読み終える頃には、あなたはもう二度と、白い和食器をただの「きれいなお皿」としては見られなくなっているはずだ。目次から気になる章に飛んでもいいし、最初から順番に読み進めてもらってもいい。
有田焼って、そもそも何?
焼き物は大きく「陶器(とうき)」と「磁器(じき)」の2種類に分けられる。陶器は土を原料に、比較的低い温度(およそ900度前後)で焼き上げるやきもの。対して磁器は、ガラス質を多く含む石――陶石(とうせき)――を砕いて粉にしたものを主原料にし、1300度前後という高温で焼き締める。有田焼はこの磁器の中でも、日本で最初に焼かれた磁器だと考えられている。
つまり、あの澄んだ「キンッ」という音の正体は、器の中身がほとんどガラス化した石だから、ということになる。これはつまり、1300度という熱が、陶石に含まれる長石という成分をどろりと溶かし、冷えて固まるときに土の粒子の隙間をガラス質で埋め尽くしてしまう、ということだ。だから水をほとんど吸わず、叩くと金属や薄いガラスのような硬質な音が響き、光にかざすと薄い部分は透けて見える。土をこねて形を作るところまでは陶器と同じでも、焼き上がったときの中身はまったくの別物になっているのだ。
焼く前:ただの灰色の石ころ
泉山などで採れる陶石を砕き、粉にして練り直しただけの状態。まだ白さも、あの澄んだ音も生まれていない。
焼いた後:ガラス質に生まれ変わった白磁
1300度で焼き締められ、表面はガラスのようにつやめく。爪で弾けば、澄んだ高い音が返ってくる。
※ 陶石が白磁になる変化を単純化したイメージ図です
有田焼の正体は、突き詰めればほぼ「粉にした石」だ。陶石を砕いて粉状にし、水を加えて土のように練り直したものが原料になる。つまりあなたが手にしているその白いカップは、厳密には土をこねただけの器ではなく、石を砕いて再構成した器に近い——と言うと、たいていの人は少し驚く。
朝鮮から来た一人の陶工が、山を掘り当てた日
舞台は江戸時代の初め、佐賀藩(肥前国)。豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592〜1598年、文禄・慶長の役)の際、藩主・鍋島直茂によって日本に連れてこられた朝鮮人陶工の一人に、李参平(り さんぺい)という人物がいたと伝えられている。日本名を金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)とも名乗ったこの陶工が、有田焼の「陶祖」——焼き物の始まりを作った人物——として、今も有田の陶山神社に祀られている。
李参平は佐賀の各地で陶器を焼きながら、磁器の原料になる良質な石を探し続けたという。そして1616年(元和2年)、有田東部の泉山(いずみやま)で、白く輝く陶石の鉱脈をついに発見した。これが、日本で初めて磁器が焼かれた瞬間だと伝えられている。
その後、藩は品質と技術を守るために生産体制を大きく引き締めていく。1637年(寛永14年)には、佐賀藩が窯の統廃合と陶工の整理を行い、生産体制と品質管理を強化したと伝えられている。単なる規制ではなく、有田を「最高級磁器の産地」として磨き上げていくための決断だったと見ることもできる。
李参平が有田・泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、日本で初めてとされる磁器を焼いたと伝えられている。
佐賀藩が窯の統廃合と陶工の整理を行い、生産体制と品質管理を強化したと伝えられている。
オランダ東インド会社(VOC)が初めて有田(伊万里)の磁器を買い付け、海外への輸出が始まったとされる。
中国・明清交代の混乱により景徳鎮の磁器輸出が停滞し、その代替として有田磁器への需要が高まったと伝えられている。
中東やヨーロッパへの大量輸出が本格化し、有田磁器がオランダ商館を経て世界中に渡っていったとされる。
李参平が泉山で陶石を発見したとされる1616年から数えて、有田焼創業400年の節目を迎えた。
実はもうひとつの「石から生まれた磁器」があった
日本には磁器の名産地がいくつかあるが、なかでもよく比較されるのが、石川県の九谷焼(くたにやき)だ。どちらも400年を超える歴史を持つ磁器でありながら、生まれ持った個性はまったく違う方向に育っていった。
有田焼
白磁の余白を活かした、静かで繊細な絵付けが持ち味。染付の藍色や控えめな赤絵が、涼やかな印象をつくる。
佐賀藩の管理のもと品質重視で発展し、海を渡ってヨーロッパの宮殿を飾った実績を持つ。
九谷焼
五彩手(ごさいで)と呼ばれる、緑・黄・赤・紫・紺青を使った大胆で華やかな絵付けが特徴。余白を埋め尽くす様式美を持つ。
江戸初期に誕生するも一度は途絶え、後の時代に再興されたという劇的な歴史を持つと伝えられている。
| 見るポイント | 有田焼 | 九谷焼 |
|---|---|---|
| 育った土地 | 佐賀県有田町(肥前) | 石川県加賀地方 |
| 印象 | 白磁に映える繊細な藍と控えめな赤絵 | 色彩豊かで大胆な五彩の絵付け |
| 歴史 | 藩の管理下で一貫して発展 | 一度途絶え、後に再興されたと伝えられる |
なぜ同じ「磁器」から、ここまで違う表情が生まれたのか。有田は佐賀藩による一貫した品質管理と、海外輸出という「見せる相手」の存在のもとで、余白を活かした洗練を追求した。一方、加賀の窯は技術が一度途絶えたと伝えられ、後の時代に「再興九谷」として蘇った際、失われた技術を取り戻すかのように色を惜しみなく使う大胆な様式が花開いたとも言われている。同じ磁器という土俵に立ちながら、たどった道の違いが、器の表情の違いとなって表れているのだ。
実は、初期の九谷焼(古九谷)については「本当に石川県で焼かれたものなのか、実は有田で焼かれたのではないか」という論争が半世紀以上にわたって続いてきた。近年の発掘調査で九谷の地でも色絵磁器の窯跡が見つかり、現在は両方の産地でそれぞれ焼かれていたと考えられているという。焼き物の世界の「兄弟関係」は、思っている以上に入り組んでいる。
遠い異国の王が、有田焼のために「磁器の宮殿」を建てた
実は、有田焼(当時はヨーロッパで積み出し港の名から「イマリ」と呼ばれていた)は、ドイツやフランスの磁器づくりのお手本になった張本人だ。17世紀後半、オランダ東インド会社を通じてヨーロッパに渡った有田の磁器は、当時まだ自前で磁器を焼く技術を持っていなかったヨーロッパの王侯貴族たちを熱狂させ、磁器を所有すること自体がステータスシンボルになったと伝えられている。
その熱狂の象徴が、ポーランド国王でありザクセン選帝侯でもあったアウグスト強王だ。彼は日本や中国の磁器にとことん惚れ込み、オークションで次々と買い集め、ついには自分の膨大なコレクションを納めるためだけの「日本宮(Japanisches Palais)」という宮殿の建設まで指示したと伝えられている。1710年頃、ヨーロッパで最初の硬質磁器の窯とされるドイツのマイセン窯が創業したのも、こうした有田・中国磁器への強い憧れが背景にあったと言われている。柿右衛門様式の作品は、マイセン窯やフランスのシャンティイ窯などで模倣されたとも伝えられている。
佐賀の小さな町で焼かれた白い器が、ヨーロッパの磁器産業そのものを生み出した。
今度、青と白の和食器を見かけたら、こう言ってみてほしい。「これと同じような器に恋をした王様が、自分専用の“磁器の宮殿”まで建てたんだって」——たいていの人は、目を丸くするはずだ。
四百年で磨かれた、四つの表情
有田焼とひとくちに言っても、時代ごとに全く違う表情の様式が生まれてきた。単なる見た目の違いではなく、それぞれに「誰のために、どう発展したか」という背景がある。
※ 図はいずれも様式の構造を分かりやすく再現したイメージ図です
柿右衛門様式の「余白の美」は、単に絵を描かなかったのではない。乳白色の素地の美しさを最大限に見せるために、あえて描き込みを最小限に抑えるという、非常に高度な引き算の美意識だったと言われている。埋め尽くす金襴手と、余白を活かす柿右衛門様式——同じ有田焼の中に、正反対の美学が同居しているのだ。
有田・柿右衛門・今泉今右衛門・源右衛門といった名前は、実は個人名ではなく、代々受け継がれてきた「窯元の名跡」だ。柿右衛門と今右衛門は佐賀の「三右衛門」と呼ばれ、なかでも今右衛門家は江戸時代、佐賀藩の御用赤絵師として色鍋島の伝統を一手に担っていたと伝えられている。
職人の手が生み出す、7つの工程
石ころが、光を通す白磁になるまでには、いくつもの手仕事の段階を経る。機械が代わりを務められる部分もあるが、最後にものを言うのは、やはり職人の手と感覚だと言われている。
陶石の採掘・粉砕
陶石(とうせき)を採掘し、クラッシャーで砕き、水を加えて土のように練り直す。かつては有田・泉山の石が使われたが、現在は熊本県天草の陶石が多く使われている。
成形(せいけい)
ろくろを挽いて一つずつ形をつくる方法と、石膏の型に土を流し込む「鋳込み」で同じ形を安定してつくる方法がある。
素焼き(すやき)
成形して乾燥させた素地を、およそ900度の低い温度で一度焼く。本焼きの際の割れを防ぎ、次の絵付けをしやすくするための工程。
下絵付け(したえつけ)
「呉須(ごす)」という、焼くと藍色に発色する絵の具で文様を描く。線を描く「線描き」と、線の中を塗る「濃み(だみ)」を使い分ける。
施釉(せゆう)
白っぽい液体の釉薬(ゆうやく)をかける。この時点では下絵はいったん見えなくなるが、焼くと透明なガラス質になり、文様が再び浮かび上がる。
本焼き(ほんやき)
およそ1300度という高温で焼き締める、最も重要な工程。これによって器は硬くガラス質に変化し、あの澄んだ音と透光性が生まれる。
上絵付け・検品(うわえつけ)
赤・緑・黄・金など藍色以外の色をガラス質の上から施し、上絵窯(赤絵窯)で700〜800度の低温で焼き付ける。最後に一枚一枚、職人の目で検品して完成の合図とする。
「土こね3年、ろくろ8年」——一人前になるまでの長い道
有田焼の産地では、土をつくる係、ろくろや型で形をつくる係、下絵付けをする係、上絵付けをする係というように、工程ごとに担当が分かれる分業制がとられてきたと言われている。それぞれの持ち場で、一人前と認められるまでに長い年月がかかる。
陶芸の世界には「土こね3年、ろくろ8年」という言葉がある。土を思い通りにこねられるようになるまでに3年、ろくろで形を安定して挽けるようになるまでにさらに8年——それほど時間のかかる仕事だとされている。職人として独立できるようになるまでには、さらに長い修行期間が必要だと言われている。
次に有田焼の器を手に取ったときは、その滑らかな曲線の裏側に、10年単位の年月をかけて指先の感覚を磨き続けてきた職人がいることを思い出してみてほしい。
知ると見え方が変わる、三つの勘違い
ここまで読んだ人なら、もう気づいているかもしれない。有田焼には、よくある勘違いがいくつかある。
元をたどれば同じものだ。江戸時代、有田で焼かれた磁器は、積み出し港だった伊万里港の名前で「伊万里焼」と呼ばれ、そのままヨーロッパにまで知れ渡った。産地名である「有田焼」という呼び方が広まっていったのは、鉄道の開通などで流通の起点が変わって以降のことだと伝えられている。現在では、佐賀県伊万里市周辺で焼かれる磁器を指す言葉としても「伊万里焼」が使われており、歴史的に深く重なり合いながらも、今は別の産地呼称として整理されている。
実は違う。陶器は土を低温で焼くため吸水性が残り、急激な温度変化や電子レンジ加熱でひび割れることがある。一方、磁器である有田焼は石をガラス質になるまで高温で焼き締めているため吸水性がほとんどなく、電子レンジや食洗機にも比較的強い。ただし、金や銀を使った上絵付けが施された器は話が別で、電子レンジで火花が出たり、食洗機の熱と洗剤で金彩が剥げてしまったりすることがあるので注意したい。
多くの窯元では、土をつくる係・成形係・下絵付け係・上絵付け係というように工程ごとに担当が分かれる分業制がとられてきたと言われている。ろくろで一点ずつ挽く器もあれば、同じ形を安定してつくるための「鋳込み」成形もある。「すべて一人の職人が手びねりで」という思い込みは、実際の作られ方とは少し違うのだ。
有田焼を選ぶとき、試してみてほしいこと
売り場でただ眺めるだけでは、有田焼の魅力の半分しか分からない。次に器を手に取る機会があれば、ぜひ次のようなことを試してみてほしい。
- 光にかざしてみる——ふちの薄い部分が透けて見えるか確認すると、磁器らしい薄さと質の良さがわかる
- 指先で軽く弾いてみる——澄んだ高い音が鳴るか(ひびが入っていると鈍い音になる)
- 高台(こうだい・器の底の部分)を見る——窯元の銘や、削り出しの丁寧さを確認できる
- 絵付けの余白を見る——柿右衛門様式などは、絵を描いていない白い部分の美しさも味わいどころ
- 重さを手で確かめる——同じ大きさでも、薄く軽く仕上がっているものほど高い技術が必要とされる
毎日使いたい人へ
染付など金銀を使っていない器なら、電子レンジや食洗機にも比較的強く、気負わず普段使いできる。
贈り物にしたい人へ
金彩や色絵をふんだんに使った古伊万里・金襴手の様式は、華やかさと格を兼ね備え、贈答品として重宝されてきた。
体験してみたい人へ
有田町には絵付け体験ができる窯元や、春に開かれる「有田陶器市」など、職人の技に触れられる機会がある。開催時期や予約の可否は、訪問前に各窯元や主催者の公式情報で事前に確認しておきたい。
長く使いたい人へ
金彩・銀彩のある器は電子レンジと食洗機を避け、柔らかいスポンジで手洗いするのが基本。金銀を使っていない磁器なら、油汚れも比較的落としやすい。
四百年前の器は、今も食卓の上で生きている
有田焼は2016年、李参平が泉山で陶石を発見したとされる1616年から数えて「創業400年」の節目を迎えた。この年を機に、佐賀県の後押しのもと、新しい有田焼の可能性を探るプロジェクトが数多く立ち上がったと伝えられている。なかでも注目されたのが「2016/」というブランドだ。世界16の国と地域からデザイナーを招き、有田の16の窯元・商社とそれぞれペアを組んで新しい磁器をつくり上げるという試みだったという。同じ節目の年には、オランダ人デザイナーのタイメン・スメルダー氏が有田に滞在して手がけた「UTSUÀ」というブランドも生まれたと伝えられている。
同じ頃、古い唐津焼や初期伊万里の”粗さ”に着目し、あえて洗練される前の表情を今の暮らしに合う形に落とし込もうとする若手作家たちも現れたという。四百年前、ヨーロッパの王侯貴族の宮殿を飾った磁器は、今も形を変えながら、世界中の食卓に置かれ続けている。古いだけの工芸ではなく、今なお現在進行形で挑戦が続いているのが、有田焼という産地の姿だ。
その白い器を、もう一度手に取ってみてほしい。
指先で弾けば、澄んだ音が鳴る。窓にかざせば、ふちの薄い部分がうっすらと光を通す。それは1616年、佐賀の小さな山・泉山で一人の陶工が掘り当てた一つの石から始まった物語の続きだ。
今日知ったこの話——遠い異国の王が、有田焼欲しさに自分だけの「磁器の宮殿」まで建てさせてしまったという話——を、誰かにひとこと話したくなったなら、それこそが、有田焼がずっとやってきたことなのだと思う。四百年のあいだ、器は黙って、その手触りと音だけで語り続けてきたのだから。
参考資料・さらに知りたい方へ
- 有田焼 — Wikipedia
- 有田焼(ありたやき)とは|有田観光協会 ありたさんぽ
- 有田焼ができるまで|有田観光協会 ありたさんぽ(製造工程)
- 泉山磁石場(国指定史跡)|有田観光協会 ありたさんぽ
- 1637年―日本人陶工追放と藩の管理体制の確立|ARITA EPISODE 2
- 古伊万里、柿右衛門、色鍋島――有田焼の様式美|ARITA EPISODE 2
- 有田焼とは。伊万里焼と呼ばれた歴史と現在の姿|中川政七商店の読みもの
- ヨーロッパで最も有田焼を愛した王様|京都美商ギャラリー
- 有田の三右衛門|有田焼のすべて
- 陶芸家になるには|キャリアガーデン
- 有田焼、創業400年目の挑戦|事業構想オンライン
- 陶器と磁器の違いは?特徴・手入れ方法・食洗機対応の可否と注意点を解説|BECOS
- 「古九谷」の発祥|山代温泉観光協会
- 一挙に解決!有田焼と伊万里焼の違いとは?特徴や歴史、3大様式って?|jtopia
